

研究活動一覧
安重根東洋平和研究センターとは

龍谷大学(社会科学研究所附属)安重根東洋平和研究センターは、東アジアの平和と安定の実現を目指し、戦後補償問題や歴史認識から生じる複雑な問題の解決の糸口を探るため、市民活動と連携した研究活動を目的として、2013年5月に龍谷大学社会科学研究所に設立されました。センターの名称には、安重根が旅順監獄で処刑前に執筆した「東洋平和論」の歴史的・現代的考察を社会に発信するという趣旨が込められています。また、センター活動は単に研究だけで終わるのではなく、それを教育に反映させることを最も重視しています。
実際、龍谷大学では「東アジアの未来:龍谷大学で東アジアの未来を構想する」という教養科目が開設されており、この講義を通じて、学生たちは龍谷大学に安重根の遺墨が保管されていることを知ることになります。この貴重な歴史資料を通して、学生は言葉では言い表せないような強い印象を受け、学問が自分の人生と密接に関わり、平和がいかに重要かを理解できる一助となっています。
伊藤博文を狙撃した安重根の真意が「東洋平和の実現」にあったことは、日本ではほとんど知られていません。裁判で彼が朝鮮の独立を侵害する日本の侵略を批判し、東洋平和のためには日中韓三国がそれぞれ対等な立場で相互協力する必要があると訴えたことは重要な意味を持ちます。歴史認識から生じる諸問題の解決の糸口を模索している今こそ、日中韓の政府関係者を含め、市民と研究者が積極的な対話を推進し、安重根の東洋平和に関する研究を介して相互理解を理解を深めることを私たちのセンターの目標としています。
センターの活動について
本センターは、日韓の平和交流のために必要な研究目的を達成するために3部門(歴史部門、経済・政治部門、文化部門)をおき、次の研究テーマに取り組みます。
歴史部門
100年余前に安重根は、自著「東洋平和論」で日・中・韓の三国が力を合わせるべきと力説しました。歴史観の相克という現実の壁にぶつかり、今もなお先覚者の思想だけにとどまっている東アジアの現実を踏まえながら、政治的・法的問題が中心となるものの歴史的な解明を行う こと、とりわけ過去責任と和解のあり方をとおして、過ちを繰り返さないための未来歴史交流事業の基礎となる研究活動を行います。
経済・政治部門
強制連行による朝鮮人、中国人労働者を犠牲にした史実の一面を考察するとともに、センターは北海道朱鞠内において戦時下の強制労働の史実を伝える「笹の墓標強制労働博物館」などを貴重な文化資産と位置付けます。戦後からこれまでの交流、特に企業間の経済的な交流を振り返るとともに、今後の経済交流のあり方を展望します。とりわけ、安重根が先見的に唱えた「東アジア経済共同体」としての日韓の経済交流事業の可能性も展望します 。また、最近、顕著な動きとしての韓国および東アジアにおける社会的企業、協同組合の広がりの検討も行います。
文化部門
「韓流ブーム」にみられる近年の大きな変化に注目しつつ、日韓の長い文化交流の歴史をふまえつつ、本センターでは、特に多・異文化交流の視点から今後の日韓文化交流を展望します。この文化交流には教育交流およびNGO・市民交流も含めます。市民交流と教育・文化交流、相互理解のための未来文化交流事業のあり方を研究します。
以上の3部門のテーマ考察を通して、未来100年のための歴史・経済・文化交流事業のあり方を展望するとともに、可能な限り具体的な事業提案を行うことを本センターの活動とします。東アジアの歴史的和解、地域統合の未来は、その目標を目指してこそ、東アジア地域全体の安定につながると言えます。本共同研究においては、その研究成果を、日韓市民社会の形成の基盤づくり、東アジアの未来展望につなげ、市民交流、教育への還元を具体化するものとして、その特徴を出していきたいと考えています。
史実をあるがまま伝え、未来へ活かす

龍谷大学は、1995年に浄土真宗本願寺派に属する岡山の浄心寺から三幅の安重根真筆遺墨と当時の関連写真の寄託を受け、本学深草図書館の貴重書書架に永きに亘って「ひっそりと」保管されていました。そのように秘密裡に保管されていた理由は、安重根は初代首相の伊藤博文を1909年10月26日にハルビン駅で暗殺した人物であるからです。このことは拭い去れない史実であって、日本人にとって安重根を冷静に客観視することは難しいと言えます。いまだに日本社会では安重根は「暗殺者」であり、「テロリスト」という言葉が飛び交い、隣国との関係性においての歴史観は1990年代に比べて後退傾向にあります。一方、韓国では安重根ブームではないかと思われるぐらい小説、映画、テレビで取り上げられています。「英雄」という枠を超えた「人間としての安重根」がそれらに描かれ、韓国市民の歴史に対する想像を掻き立てています。
しかし、「事実は小説より奇なり」という言葉があるように、安重根を取り巻く日本人の葛藤や心理は歴史教科書では説明できないものがあります。「歴史の研究と教育にぜひ役立てていただきたい」との遺墨の寄託者の痛切な意向の裏には寺で保管するには重荷であったという本音の部分もありました。では龍谷大学がどのように対応したかというと、所有者と同様にその歴史資料の扱いは困難極まるものであったので、秘密裡に保管する方法しかなかったのです。
時代が変化し、社会が急激に変容を遂げると、過去の歴史を複眼的に見つめなおす作業が社会の余裕としてなされるようになりました。2008年10月25日、「韓国併合」100年市民ネットワークという市民団体が結成され、彼らの活動によって安重根の遺墨が100年の眠りから覚めた形として社会にその存在が知らされました。このネットワークの中心的な運営者は龍谷大学の教員たちでした。「韓国併合」100年を控えて日本の市民社会から発信する信頼と希望創造のメッセージが発表され、龍谷大学で「死蔵されていた」安重根の遺墨の存在を知らせることに成功しました。その後、2011年3月27日には龍谷大学図書館と韓国ソウルの安重根義士紀念館との間で学術研究・文化交流に関する協定書の締結に至り、「龍谷大学図書館と安重根義士紀念館との学術研究・交流に関する協定締結に伴う記念講演会も開催されました。そして、半年の遺墨の韓国への貸し出しも可能となり、韓国で安重根の遺墨展が開催されました。韓国の一般市民にとって日本人が大切に遺墨を秘密裡でも保管していたという事実は驚くべきドラマであり、史実をあるがままに伝え、未来に活かすストーリーを紹介します。
安重根が唱えた「東洋平和論」

安重根義士の東洋平和論は序文、前鑑、現状、伏線、問答に分かれているが、その中序と前鑑だけを執筆しただけで内容から見るに前鑑部分も未完成のものと推量される。
義挙後安義士は獄中で東洋平和論執筆を決心しこれを明かしたところ、平石高等法委員長は本が完成するまで死刑を延期することを約束したと言う。そこで「安應七歴史」と「東洋平和論」の執筆に手を着けたが、結局2月19日死刑が確定し、3月15日「安應七歴史」の執筆は何とか終えたものの、「東洋平和論」を執筆する余裕はたったの10日しか残されなかった。「東洋平和論」が序文だけに留まり、本論は到底書けなかった彼が書こうとした内容を当時通訳した園木氏に口述し、その記録が残っているため、我々は安義士の直筆ではないと言う不満はあるが、義士が書こうとした内容を部分的にでも知ることが出来るのは幸運であると言うべきである。
その内容はロシアが、東洋の中心であり港湾都市である旅順を手中に収め、これをまた日本が奪い、中国がまた取り戻そうとするであろうから、東洋各国の軋轢葛藤はいつまでも続くことになる。いっそここを永世中立地帯とし、そこにアジア各国が自国の政府を代表する人を派遣、アジア平和のための常設委員会を作って紛争を未然に防ぎ、将来の発展を図ること、各国が一定の財政を提供して開発銀行を設置し、困難な国の援助と共同開発資金として使用するようにすること、この委員会が地球の東の果てに存在する点を勘案してローマ教皇庁もここに代表を派遣すること。
ローマ教皇庁を参加させることによって、一々ヨーロッパ各国が参加無しでも、委員会の国際的位置づけ承認と影響力を獲得しようとするものであった。
今日、ヨーロッパにはEUが生じ、アジア太平洋地域にはAPEC等が生じて活動しているが、安義士はすでに80余年前にこのような構想をしていた。安義士の識見と歴史を見渡す深い洞察力に接すると、安義士は一介の軍人であったと言うより大政治思想家と見られる一面があり、私達の安義士に対する崇慕の念を更に深くするのである。(注:「新たに描いた安重根義士」ー崔書勉著)
安重根、韓国の独立の歴史

安重根は、中国旅順の法廷において6回の公判の末、死刑を言い渡されました。死刑執行日に旅順監獄の刑場に臨み「私は東洋平和の為に事を行った。それ故、韓日の両国は東洋平和の為に互いに協力することを望んでやまない」と切実な願いを残し、「私が死んだ後、遺骨をハルビン公園の近くに埋めておき、国権が回復した時に故郷に返葬してほしい。私は天国に行ってもまた、国権の回復のために尽くすつもりだ。君たちは帰って同胞に、皆が各々国のために責任を負い、国民としての義務を果たし、心を一つにし、力を合わせて功労を立て業を達成するようにと伝えてくれ。大韓独立の声が天国に聞こえてきたら、私はきっと踊りながら万歳を叫ぶだろう。」と弟たちに遺言を託しました。

安重根の遺墨について




龍谷大学社会科学研究所付属安重根東洋平和研究センターは2013年4月1日に発足しました。 この発足に先立って、「韓国併合」の1910年から数えて101年目である2011年3月27日、龍谷大学主催で「日韓交流、新たな時代へ―日本における安重根関係資料の存在意義―」と題された講演会が開催されています。本講演会は、龍谷大学図書館と安重根義士紀念館との間で学術研究・交流に関する協定書締結を記念して実施されたものです。本協定により、資料活用と教育・研究の発展を目指すとともに、日本と韓国(以後、日韓とする)友好関係の強い絆を築くことが両機関によって確認されました。
龍谷大学の貴重資料の中には、深草図書館特別書庫で保管されている安重根の関係資料(88 点)として遺墨三幅および写真があります。特に遺墨三幅は、1909年10月26日、中国東北部のハルビン駅で元老・伊藤博文(元首相・初代韓国統監)を撃った韓国の独立運動家であり大韓義軍参謀中将でもある安重根が翌年3月 26日に旅順監獄で処刑される直前に監獄の中で書き残した絶筆です。この遺墨を、2010年に安重根祈念館に貸し出しをし、没100年の安重根特別展において海外初公開となった経緯があります。
こうした龍谷大学が取り組んだ日韓交流は、今日の不安定な時代にこそ継承・発展させるべきであり、重要資料を含めて学際的・国際的に調査研究することは龍谷大学の独自性を内外に示すことにもなり得ると考えています。
そして、2015年10月22日、既存の三幅に加え、新たに遺墨「獨立」(額装:一面)が図書館資料として、宗教法人願舩寺より龍谷大学に寄託されました。四本目の安重根の遺墨は、安重根の信念を日本社会だけでなく世界に伝えようとしているかのようです。
遺墨「獨立」は、既存の三幅の遺墨とは異なる意味合いをもっています。「獨立」の横に、「庚戌(こうじゅつ)(1910年)二月 於旅順獄中 大韓國人 安重根書」と書かれ、安重根の手形が押されています。今回の遺墨には、他のものと異なり、祖国と民族の独立を願う強い意思がうかがえる「獨立」という文字が書かれています。この遺墨を譲り受けた旅順監獄の看守は、実家だった広島県安芸高田市の願舩寺に遺墨を持ち帰り、所蔵されてきましたが、今後は龍谷大学が所蔵することによって、保管の点からも劣化を防ぐ環境に額装は置かれるようになりました。
遺墨四点の寄託を受けた龍谷大学は、安重根の評価をめぐり日韓両政府が応酬する中、「安重根の行動と思想を通じて日韓史を考えるきっかけにしたい」いう大切なミッションを担っています。